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蝉時雨



 夏の熱気が、コンクリートの照り返しを受けて、酷暑の都市を作り出す時節になると、上野の森には毎年気が狂いそうなほどの蝉が鳴く。

 大樹の枝先には、葉の代わりに蝉がぶら下がっているのではないかと思うほど、遠く近くで、繰り返し繰り返し、蝉の声が重なり響く。
 その声を聞いていると、時間の感覚がなくなる気がするほど、いつも同じ繰り返し。
 芳山和子は、コンクリート造りの建物の中で、その繰り返しを頭の中にこだまさせていた。
 毎年毎年、昨日も今日も同じ繰り返し。
 そう思うと、うんざりする。というわけではないけれど、和子は気が遠くなりそうになる。
 繰り返し繰り返し――――――――否。
 同じ繰り返しではありえないのだ。
 柔らかい筆の先を動かしながら、頭の中に否定の言葉を強く思い描く。
 昨日まで聞いていた蝉の声と、明日聞くかも知れない蝉の声と、これから先ずっと、来年も再来年も、和子の耳に届かないくらい先の未来にも上野の森に響き続ける蝉の声と――その全てが、どんなに似ていても、同じものではありえない。それらは常に変化して留まるところを知らない果てへと続いていく。
「時間は不可逆――」
 和子は筆の先に溶かしたにかわをすくいとって、小さく呟いた。
「あの日、あの時、あの瞬間の――時間の先に……未来はあったのかしら?」
 問いかけた言葉は向かい合う絵にはねかえって、和子の耳に返ってくる。
 コンクリート造りの真四角な部屋に、今は和子一人蝉の声の繰り返しを聞いている。
 大きく切り取られた窓の外には、青い空にくっきりと湧きあがる白い雲が、鮮やかな対照をなしている。
 筆の先が、ゆっくりと柔らかい紙の上におり、そこから先の手順を頭にさらうとき、耳に届く蝉の合唱が、和子の呟きを蝉の言葉で繰り返してるような気がした。
 
 未来はあったのかしら?
 未来はあったのかしら?
 未来はあったのかしら?
 未来はあったのかしら?

 YES or NO ?




「俺と……つきあえば?」
 蝉の声と、自転車の車輪が回る音がBGMに流れていた。
 川沿いの道は人気がなく、一級河川に沿ってぽかりと開けた空間には黄昏に向かって、ゆっくりとした時間が漂う。
 川面は夕焼けに白く照らされ、それを渡る風は、わずかに熱を吸いとられ、心地よい涼しさで吹きぬける。
 千昭は額の汗がさらわれるのを感じながら、自分はなんでこんなことをいっているんだろうと考えた。
 風を切る耳鳴りに混じって、蝉の声が途切れ途切れに耳に届く。
 一瞬、流れる風景の中にある雑木を斜め見て、その音の主を頭に浮かべた。
 奇妙な生き物。
 何百、何千もの鳴き声はまるで一つの生き物のようで、耳から入って、千秋の頭の中を侵略し、支配して行く。
 無数の、名前のない侵略者(インセクター)。
 初めて蝉の声を聞いたとき、そのあまりの異様さに、千秋の心は動揺した。
 学習して知ってはいたものの、初めて見るそれは、姿形はともかく、耳をつんざく鳴き声があまりにも奇怪だった。敵の侵略を告げる警戒音に似て、心の奥底から不安をかき鳴らすようで、落ち着かない不気味さを感じていた。
 ところが。
「蝉が鳴き始めると、夏がきた――って感じがするよね!」
 すぐ隣で、真琴が深呼吸するように鮮やかな声をあげた。その声は、その言葉を口にした真琴の表情は千昭の中に強く焼き付いた。
 眩しくて、鮮やかで、すがすがしい――印象はそのまま、真琴がこの異様な音を聞いて感じた印象なのだろうと直感する。
 夏がきた――。
 千昭は不意に空を見上げた。
 曇りがちで、雨が多かった季節が、いつの間にか終わっていた。
 雨に洗いあげられた空は春先に、初めてこの世界で見た空と比べると藍色を増して、空の縁を彩る積乱雲はより白く変化している。
「ああ……」
 千昭は頷いて答えた。
 その瞬間から、『蝉の声』は千昭にとっても夏を呼びこむ声になった。
 それから十数日経った今、夏の声は数を増し、時を惜しむように鳴き続けている。
 たった七日しか地上の世界を知らないという生き物。
 その短い間にどれだけのこと感じるのだろうか。
 どれだけの、上辺だけでない何かを知って逝くことが出来るのだろうか。
 何も知ることができず、子孫を残すこともできず、ただ鳴き声だけを残して消えて行く存在は、ここにいる意味があるのだろうか。
 グロテスクな生き物が何も考えていないことをわかっていても、千昭は考えずにはいられない。
 鳴きやむ瞬間に聞こえる、死ぬ間際の断末魔のようなジイ……という声を聞くと、千昭は胸が締め付けられるような想いがした。


「何それ」
 低い声がして、千昭は言葉尻を返すように答える。
「つきあおう」
「どっからそういう話になったのよ」
「功介に彼女ができたら、って話」
 たった七日間の、短い間にすら一生を終える生き物もあるというのに、自分は何故蝉のように生きられないのだろう。
 千昭は目を眇めて、日が沈む先を見つめた。
「ちょっと待って!」
 甲高い声がして、千昭は自転車を止めた。
 振り向くと、真琴はうつむいたまま荷台を降りて、千昭が声をかけるまもなく、奇妙な動きをした。
 奇妙な――それでいて、千昭がよく知っているような行動――。
「おい、おまえ……」
 問いかけた言葉は、行き着くことなく風にさらわれた。目の前にいた真琴の姿が掻き消える。その時、千昭は耳の奥に、うなるような耳鳴りを聞いた。蝉の声に似て、平衡感覚を狂わせるこだまが頭の中に響き渡る。川辺りを見ているはずの視界が焦点を失って、古いテレビの画像が消える瞬間のように、世界が揺らぐ。
「……何……だっけ……」
 千昭はめまいを感じて、眉間を押さえた。
 ぼんやりと焦点の合わない目を流れる川に向けて、しばし空白の思考のまま、流れの繰り返しを目で追う。
「…………そうか……俺……ふられたんだな」
 千昭は小さく呟いた。
 鈍い痛みと共に、どこか安堵する気持ちがあった。
 たった今真琴が目の前からいなくなったように、自分はやがてこの時間群から離れて行く。それなのに。
「付き合おうなんて……いう奴、単なるバカじゃねぇの……」
 千昭は目を閉じて、長い息をはいた。
 一匹の蝉が何かに驚いたのか、切羽詰まったような声をあげてどこかへ飛んで行く。羽音が去って、声が遠ざかる。
 夏が、終わってしまう……。
 千昭は自転車のペダルに足をかけた。
 今ここにいた真琴は別の時間軸に跳んだ。
 その瞬間、少しずつ誤差の存在する別の次元から、一人、真琴がこの次元に移動し、真琴が時間を跳躍したというありえない変化を、時空間は修正にかかったはずだった。
「なかったことに……なったのかもな……」
 自分がこの時間群に来ることがなければ、生まれてくることのなかった、真琴を好きだという気持ち。
 それは時間と次元の力を借りなくても、初めからなかったことになって当然なのかもしれない。あってはいけないものだったのかもしれない。
 千昭は真っ赤に染まる河辺りの道の向こうへと自転車を走らせた。




 時間と空間と次元と――――――。
 今、ここに高次元の世界が交わり、時間を超える。
 今、一人の千昭が、一人の真琴を見ている。
 一人の功介を見ている。
 千昭は青いリストバンドを持ち上げて、手首に浮かび上がる『1』という数字を今一度確認した。
『1』――今ここで、千昭が時間を跳躍すれば、この数字は『0』になる。
 千昭はうつむいて、小さく口元を歪めた。
 その表情は笑っているのか、苦しんでいるのか、それとも何も考えていないのか――もし見ているものがいても、容易には判別がつかないようなものだった。
「――……それもいい」
 千昭は低く呟いて、軽く走り出した。
 頭の天辺――自分が持つ五感の全てを空に投げ出して、次の瞬間、そのすべてが消え去って、実体そのものがなくなるような無感覚を自分の中に再現すると、見えない視野の向こうに、時間のひだが現れる。
 それは無限に続く小数点の先まで、延々と数字が移り変わる果てしなく長いデジタル時計の表示に見えた。
 テープのように長く伸びて、何もない空間に縦横無尽に交差する。
 その一つ一つが――いくつもの別な時間――いくつもの平行世界なのだった。
「時間とまれ時間とまれ時間とまれ時間とまれ時間とまれ――……」
 真琴の悲鳴が聞こえた気がした。
 つんざくような叫び声が、どよめく雑音(ノイズ)を切り裂いて響き渡る。
 千昭は眉間にしわよせて、ゆっくりと目を閉じた。
 衝撃音と悲鳴が遠ざかって行く。
 長いテープのような数字の表示の一つが、動きを止める。
 坂の下に倒れ込んでいた真琴の姿が消える――。
 千昭は一方の手でサポーターをした手首を強く握り締めた。
 わざわざめくって見るまでもなく、肌に刻まれた数字が0になっているのはわかっていた。
 この瞬間、今目の前にいる功介を助けるために時間を跳躍しても、おそらくどこかでその帳尻合わせが行われる。
 その一つが、千昭の腕にも刻まれている。
 そして。
 無限にある平行世界のどこかで.今、確かに功介は死んだのだ――。
 

 千昭は自分の手をじっと見つめた。
 五十六億七千万年後に現れるという弥勒菩薩のように全てを救えるならいいのに。
 できないことをわかっていながら、そう願わずにはいられなかった。
 時間を――おそらく次元をも超えた今となっても、千昭の耳に、たったいま聞いたばかりの真琴の悲鳴がこだまして、惨劇は本当にあったのだと、記憶を鮮やかによみがえらせる。
 それでも。
 今目の前に立つ、傷一つない姿を見て、心は慰められる。
「やっぱり真琴だったんだな」
「なんで……」
 真琴は目を見開いて、千昭を見ていた。
「千昭……どうしてここに……」
「それはこっちの台詞だ」
 こうするしかなかったのだと、話すことは自己欺瞞にすぎないのかもしれなかった。
 時間を跳ぶこと――それ自体がありえないことだったとしても、時間は様々な修正によって、よほどのことがない限り同じ大局へと流れてゆく。
 おそらくここで、功介たちが死んでしまったとしても、千昭の住む未来は同じようにやって来るのだろうとも思う。
 そしておそらくは、同じように、本来未来に戻るはずだった千昭が、もともとの時代に戻らなかったとしても、時空間の修正によって、問題らしい問題はかき消されて行くのだ。
 千昭は今一度、真琴の顔を見つめて、雑踏の中を歩き始めた。
「あたし黙ってるよ?!」
「そういう問題じゃねぇんだよ」
「千昭?」
 マネキンのような人の彫像に決して背の高くない真琴の姿が見え隠れする。
「千昭!!」
 呼びかけられた声に、千昭は大きく手を挙げた。
 動き出した人の波に、真琴の姿が見えなくなって行く――。
「また、明日……」
 千昭は小さく呟いた。
 声は、街の雑音にあっという間に飲み込まれ、わずかにも残らないまま掻き消える。消えて当たり前のように、言葉を向けた人の耳には届かない。
 千昭はそれでよかった。
 そうとわかっていながら、「また、明日」といいたかった。
 映画を観終わった後に、普通に街中で別れたときのように、ただ距離が離れて行く。
 それはなんて、辛くない別れなのだろうと思う。
 劇的でもなく、絶望的でもない別れ。
 人の波が何もかも和らげてくれる――。
 千昭は思わず天を仰いだ。
 人混みがこんなにやさしいものなのだと、千昭はこの時代に来て初めて知った。
 人間が極端に少なくなった自分の時代と違って、ここでは人一人消えたところで、誰も気にもとめない。そもそもいたことさえ、気づかないかもしれない。
 そのことが、今の千昭にはひどくやさしく感じられた。
 この、人だらけの雑踏なら、ふっ、と振り向いた拍子に、ずっと消息が知れなかった誰かと出会ってもなんら不思議はなくて、だから、次の瞬間、もう二度と会えないはずの真琴に会えるかも知れないという――抱いてはいけない期待を、それでも持ち続けていられる。
 そのことがひどくうれしかった。
 



 時間は修正を始める。
 この時間群に、本来なら存在しなかった千昭という存在が、それでも数ヶ月にわたる滞在が許されていたのは、千昭自身が修正の手段を持っていたからだった。
 つまり、タイムリープという時間を超える手段を持っている限り、いつかその異分子はこの時間群からいなくなる可能性が残っている。
 その可能性が、変化の修正を容認する為に、時間の規則は包容力を宿す。
 
『時間を跳躍する上で、心しておかなければいけないことがある』
 
『時間を跳躍する機械があっても、その力には限界がある』

『一つには、タイムリープが発明される以前の人間にタイムリープの話をすること。
 一つには、もともといた時間に戻る前にタイムリープの手段を失うこと』

『この二つの禁忌を破った場合、これまでの例からすると、その者は生命や存在を保障されない』

『そして時空間の修正によって、その者の存在が抹消されたとしても、未来の我々は一切関与しない』

『こういった“禁忌の罰”はこれまでの実験によると我々が考えているよりずっと高い確率で起きる』


 高いビルの上空に広がる空は晴れ。
 雑踏に流れる雑音(ノイズ)は390Hz。
 オーロラビジョンから流れる歌が、次第に遠ざかって行く。
 街中には珍しく、蝉の声がして、それが飛び立つときの苦しそうな羽ばたきに変わる。

 ――――どこか遠いところで、今一度、真琴の声が聞こえた気がした。
 





 ねえ、あなたがいい目を見ている分、悪い目を見ている人がいるんじゃないの?




 芳山和子は修正を終えた絵を、角度を変えてためつがめつ眺めて、得心がいったように小さくうなずいた。
「修正終わり」
 完成した絵は、何もなかったかのように、数日後、博物館の展示棚へと収められた。
 その日も、上野の森にはひっきりなしに蝉の鳴き声が響いていた。



<ゆや/200907 >

終わり。

→スゴイ量子力学で守ります!!
↑蝉時雨のあとがきです。

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