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■魔女は止まった時間のなかで■



 静かな館内はひんやりとした空気が流れていた。
 表ではコンクリート造りの建物の外装に一年中で一番強いといわれるに紫外線が降り注ぐ中、その厚い壁に守られて、国立博物館本館の展示室は別世界となっている。
 展示品の保護のために温度を一定に保つのは当然のことだったが、実際には特別展示のときなど、やってくる人の熱気と湿気でむっとしたこもった空気になってしまうこともある。
 けれども今は、特別集客力の高い特別展示もなく、ゴールデンウィークの後の閑散期とあって、人はまばらだった。
 とはいえ、人が少ないときに館内の空気が、どこかひんやりとした気配を帯びるのは、空調が効いているという理由だけではないと、和子は思っていた。
 この巨大なコンクリート造りの博物館は過去の遺物ばかりを体の中に溜め込んでいる。
 過去の時間、過去の想い、過去の栄光――――。
 それらは今、現在の時を生きるものとは存在を異にして、触れて熱い温度を持たない。まるで、生きている人間と幽霊のように存在を対象にしている。
 その温度を持たない幽霊たちの、巨大な埋葬廟――それが博物館というところだった。
 狭い日本にしては、やけに広すぎる気がする廊下を歩きながら、和子は自分もこの展示品と同じ幽霊なのかもしれないと考えることがあった。
 一日中、言葉を発することもなく、ただ黙々と作業を続けているとき、自分の存在は既に現実の質量を失っているのではないかと――。
 誰もいない展示室で、床のタイルに映る影が、のぞき込んだ展示用のガラスに映る影が、ここでは実体の和子よりも強い力をもっているような気さえするのだ。
「魔女おばさんか……」
 つぶやきさえ、まるで余韻を残さずに、薄暗い隅の影の中へとあっと言う間にかき消えていく。この遺物の中で、生きた人間の言葉などなんの意味も成さない。空間には、膨大に積み重なる意味の分からない記号の集合体が満ち満ちているようで、その濃密な“何か”――あるいは知の集合体といえるかもしれない“何か”――の前で、幽霊のようであっても、現在を生きる和子の言葉などまるで価値のないものに思えた。
 もし、魔女というものが存在するなら、それはガラスに映る自分の影の方だろう。
 言葉を持たない影たちは、だからこそ、形而上の力であっても、容易に振るうことができるように思えた。広い博物館内のそこかしこの影に広がって、数々の展示品と同じように言葉にならない言葉を操り、訪れる人々の耳に、濃密な“何か”の言葉をささやいていく。はっきりと現象に現れない魔法をかけていく。
 それは顕在しない。
 目に見えるものでないだけに怖ろしくもあり、はっきりとしないだけにありそうなことだった。
 もし、魔法が使えるのなら……。
 和子は心の中で小さく呟いた。
 叶うはずのない願いを言葉にして発するほど、若くはない。
 それでも、時折、自分以外の誰かの力で、自分にはできない変化をもたらしてくれたら……。
 そう願わずにはいられなかった。
 時間の止まった遺物の墓場の中で、押しつぶされそうな気配と、過去から連なる声にならない訴えに満ちた空間の中で、和子は自分は生きながらにして、この展示物たちと同じ幽霊なのだと、強く強く感じていた。
 時間が止まった世界で生き続けている――。
 何かを待ちながら、それでも、何かは二度とやってこないのだと、心のどこかは強く感じ取っていた。
 世界は変化を望まなかったし、和子自身も変化を自分で引き寄せるほど強くなかった。
「ただ、時間におし流されてここに辿り着いただけ」
 おし流されて、おし流されて、おし流されて、おし流されて…………。
 辿り着いた、辿り着いた、辿り着いた、辿り着いた…………。
 どのような経緯によってか、やはり誰かの手によって、この場所に辿り着いたに違いない遺物たちが、和子の言葉を繰り返している。
 静かで、ひんやりとした――温度を持たない言葉が和子を包んでいく。
 このまま囚われて、一歩も動けなくなりそうなほどに。


「芳山さん、姪御さんからお電話入っているわよ」
 呼び掛けが、静寂の世界をかき消した。
 事務仕事をしているパートの中山さんは、和子の基準からするとお節介が過ぎる。暑苦しいまでに、現実の存在が強すぎるのだ。
「どうも有難うございます」
 そういったのは、関わりを終わりにするためだったのに、中山さんは和子の後をついて、おしゃべりを続ける。
「ほんとにねえ。めでたいことっていいわよね。何かと忙しいけど、後になってしまえば、いい思い出よね」
「そうかもしれませんね」
 ついつい返事をしてしまうのは、昔ながらのいい子根性がいまだに抜けないからかもしれないと恨めしく思う。
 昔昔――優等生といってよかった学生時代の悪癖だろう。
 そう考えるといつも、学生時代という言葉に、何か、記憶中枢に訴えかけるイメージが掠める。
 なにかとても切なくて、頭が痛くなるような、それでいてひどくいい気分のような……ラベンダーオイルを吸い込みすぎて、鼻の奥が痛くなったときのような……奇妙な気持ちになる。
「新婚旅行はどちらに行かれるんですか? 今時の子はみんな海外に行くんでしょ?」
「さあ? そこまでは……」
 おしゃべりを早く打ち切りたくて言葉を濁す。
「あらそうなの? 式の後、ホテルに泊まってそのまま行くんじゃないの?」
 話を終えるつもりはないらしいとあきらめて、早足で、自分の事務机へと辿り着いた。
「はい。芳山です」
 受話器を耳に当てた途端、止まっている時間が音を立てて動き出した。
「魔女おばさん?」
 聞き慣れたハスキーな声が耳に響く。いや、耳を通りこして、頭の中を駆けぬけていったようだった。
「土曜日のことだけど、おばさん、何時に式場にこれそう?」
「んー……」
 和子は、見る相手もいないのに、考え込むように首をかしげた。
 問いに対する答えは、考えるまでもないのだが、間を置いて答えるのが癖になってしまっている。
 時折、話してることとは全然別の、夕飯のおかずなんかのことを考えていたりするのは、相手には秘密である。
 和子は、焼き茄子が好きだ。
 軽く焦げ目がついた焼き茄子を、手に火傷を負わないように、皮むきにするのが密かな得意技だった。
 思いがけず蘇った焼き茄子の風味を名残惜しむように、ゆっくりと答える発する。
「九時……半かなあ……?」
「ええーっ。式は十時からだよ? 付き添い役の動きとかもあるんだから、もうちょっと早めに来られないの?」
 明るい声が不満そうに悲鳴を上げる。
 いつでもどんなときでもまっすぐに前を見て歩いていた少女は、今も、未来に向かって、突き進んでいる。
 だからだろうか。
 少女の中で、時間は先へ先へと動き続け、過去は確実に過去になっていく。過ぎ去っていく現在を過去に変えていく――それは、和子にはできなかったことだった。

 


 ずっとずっと、和子は何かを待っていた。
 何かがやって来たら、自分の止まっている時間が未来に向かって動き出すのだと信じていた。
 時間は、自分を通り過ぎていくもので、自分が時間の中を突き進んでいくことなどできるわけがない。そう思い込んでいた。
 でも違うのだ。違うのだと知らされてしまった。
 単に、和子にはできなかっただけ。
 真琴は時間という風景の中を、自分から駆けぬけていった。
 駆け抜けて、和子には辿り着けなかった未来へと行ってしまった。
 眩しいまでに真っ白で、光降り注ぐ未知の世界。
 眩しすぎて、和子にはそちらに目を向けることすらできなかった世界。
 それは一体、どんな世界なのだろう――。
 真夏の、くっきりと晴れた日に沸き上がる真っ白な入道雲と濃い空の青――そのコントラストの下で、和子は薄暗い建物の中から出ることもできず、小さな窓からはそのコントラストまでは確認することもできず、ただ真っ白に光っているだけ……――――。
 



 六月のある土曜日、梅雨前線の合間をぬって、久しぶりに青空が広がっていた。
 それはまるで、未来に向かっていく少女を祝福しているかのようで、だからこそ、和子には世界がとても異質なものに感じられた。
 和子は黒い礼服姿で、日射しを避けるように黒い日傘を差し、明け方まで続いていた雨に未だ濡れそぼる木々の中を通り抜けた。
 式場の中の小さなチャペルは二家族の親族が入ってしまえば、ほとんど満席になってしまうほどだった。
 大して高くもない天井から、こもった雑音が反響して降ってくる。
 和子は真琴の頭に覆いかぶさる白いベールをのぞき込んで、そこに今も変わらず、ショートカット姿の姪の姿を確認した。
 和子にしてみれば、まだ一〇年もたたない間の姪の変化は、目まぐるしいものだった。化粧っ気のなかった顔が初めて口紅して和子のところへやってきた日、その大人びた顔が幾分背伸びして見えたのが、ずいぶん昔のことのように思える。神妙な顔つきでわずかに俯いた横顔には、白粉も口紅もすっかり馴染んでいた。
 あたりを見渡せば、祝福の日にやってきた人々は皆どこか熱にうかされたように目をきらきらとさせて、少女の幸せの夢に感化されているようだった。
 その姿は和子にとってひどく遠いものに思えて、けれども同時に、和子の中にも存在していた感情を思い起こさせるものだった。
 おぼろげに、覚えている。
 学生時代の、インフレしたような高揚感に包まれた日々の中で、確かに恋愛感情とおぼしき気配があったし、その感覚をどこかで忘れられないでいた。
 それからずいぶんと長い時が経って、自分を慕ってくれる姪が語る学校生活の中に、同じような感情の気配を感じることがあった。
 その淡い恋は、自覚しているのかいないのか、傍目に見ていても危うげなものであったけれど、確かにあの時、あの瞬間、それは真琴の中に存在していた。
「千昭が今日さーまた遅刻してきて、あ、あいついつも遅刻してしてるんだけどさあ」
「それで、功介がいうには千昭のヤツ、あたしのことぼろくそにいっていたらしくて」
「国語は全然ダメなくせに、数学だけほとんど満点。ああいうのってホント一点豪華主義っていうか。あんなんで国立はムリだよねぇー」
「それで今日も三人でグラウンド寄ってきたんだけど、お使いだから、あたしだけ抜けてきたの。そんときの千昭の情けなさそうな顔ったらさあ……。あたしがいなくなったら、ホント何もできないんだから」
 千昭、千昭、千昭…………。やってくる度に繰り返されていた名前が、ある日を境に口の端に上がらなくなった。
 同時に、うわついていた様子が幾分収まって、急激に大人びた顔をするようになった。
 和子がずっと修復していた絵をしみじみと眺めて、ある日、真琴は呟いた。
「この絵を、ずっとずっと未来まで残すのにはどうしたらいい?」
――ずっとずっと未来。
 その言葉を聞いた途端、和子のなかで、何かが甦った。
 ずっとずっと未来に還って行く――時間はすべて、未来に還って行く。
 少年はそこからやってきて、そこへ帰っていった。
 多分、もう二度と会うことはないだろうという僅かな不安と、未来の先で確かにもう一度会うだろうという楽観がどっと甦る。
 今にして思えば、期待の中で未来を夢見させることが、記憶を消したことの唯一の罪滅ぼしだったのかもしれないとも思う。
 けれども、ずっと未来だけを夢見ている和子はその場所にとどまったまま、時間の流れのなかで、取り残されてしまった。
 少年はもう二度と、やってこないかもしれないと思う頃には、和子はもう未来へと進んでいくことができなかった。あるいは、もう来ないかもしれないとはっきりと思ってしまえば、本当に来なくなると畏れていたのかもしれない。
 どちらにせよ、和子の足はもう過去に根をしっかりとおろしてしまっている。未来へと自由に走っていくなんてことは到底できそうにない。「立ち止まって」いるわけじゃなかった。「立ち止まって」いるのなら、多分まだよかったのだ。
 和子は、時間のある一点に止まったまま、動いている時間から取り残されたのだ。
 何もかもが和子を通り越して未来へと去って行ってしまう。
 和子はただ幽霊のようにどうすることも出来ないまま、見送っているだけ。
 その頭の上に。
 高らかに、空気が振動する。
 和子を通り過ぎて、目眩がするように光の音が降り注ぐ。
 祝福の鐘が鳴り響く中で、和子はハッと我に返った。
 妄想にとらわれていたことに気づいて、慌てて、けれども態度には現れないように、ゆっくりとあたりを見渡す。
 時間の流れを感じながら、人々のざわめきを耳に聞く。
 ここには少なくとも、現在から先の時間があった。
 すぐ側に立つ真琴の顔はわずかに紅潮して、裡に秘める気持ちが周囲にまではみ出している。明るくて輝かしい色をしたその想いが、今の和子には少し鬱陶しかった。
 その隣、白い燕尾服の青年は、また数えるほどしか会ったことがなかった。
 結婚を聞かされてから、和子のもとに二人してやってきたとき、初めて顔を見た。名前も、初めて聞く名前だった。
 高校時代、和子のところにやってくる度に何度も何度も口にしていた名前とは、当たり前のように違っていた。
 眩しいぐらいまっすぐに、未来を見ている顔をして、真琴はチャペルの天井から降り注ぐ光の束を見つめている。
 それは、うす暗い博物館の中で、ものいわぬ過去の遺物と言葉を交わす和子とはまるで対照的だった。
 何故、真琴は未来に向かっていけたのだろう。
 和子は首を傾げて心の中に問い掛ける。
 心の奥底で、真琴と自分が同じような体験をしたことをはっきりと感じ取っていた。
 それなのに、何故。
『きっと、会いにくるよ』
 少年はそう言っていた。
 和子は記憶を失っても、その言葉を言われた瞬間の想いを完全に忘れることは無かった。
 だからこそ、それは呪いの言葉に等しかった。
 真琴に、もう一人の少年は何か言葉を残しただろうか?
 だとしたら、それは一体どんな言葉だろう。
 どんな魔法を真琴にかけたのだろう。
 真琴が未来に向かっていけるのは、その魔法のせいなのだろうか。
 高らかに、鐘の音が鳴り響くたびに、和子の中で問いが繰り返される。答えが示されることのない問い掛けだとわかっていても、やめることができない。声にならない問いが、反響し、和子の体の内側を虚ろに満たしていく。
 それでいて、理解してもいた。
 博物館に棲む過去の遺物たちと同じ。
 自ら言葉にならない問いを発する瞬間、同時に答えを知っているのだ。
 和子自身も――――。




 そっとのばした指先が、厚い展示ガラスに触れ、束の間、和子の実体と虚像が交差する。
「誰も私を迎えに来たりしない」
 和子は虚像に向かって冷たく言い放った。
 鋭く魔女の自分を睨みつけて、言葉に力を込める。
「未来は、過去を待ったりしない」
 繰り返す言葉は薄暗い部屋のなかに消えていく。遺物たちの声にならない声にのみこまれていく。
「誰も、私を、待ったりしない」
 その言葉に、黒い影になって浮かび上がる本当の魔女が、うっすらと笑ったような気がした。
 少年は気まぐれにいった言葉を忘れてしまったのだろう。
 あるいは、約束を守れる環境でなくなったのだろう。
 少年は未来で『和子に会う未来』を待つことをやめたのだ。
 それでも。
 和子は心の中に呟いた。
 ガラス面にうっすらと浮かび上がる黒みがかった虚像をわずかに見やって、固く唇を切り結ぶと、さらに暗い展示室の奥へと歩き始める。
 声にならない言葉が実体の和子を多い隠していく。


 それでも和子はここで、時間の止まった過去の世界で、今日もまた待ち続けるのだ。
 決して来ることのない未来を――――。






<ゆや/20070522 >

終わり。

→時代の変化なのかなあ
↑魔女は……のあとがきです。

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