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「月光」+「Over the lights・Under the moon―月下飛行―」レビューその二


月光 第1巻 (1) (白泉社文庫 な 3-10)
月光 第1巻 (1) (白泉社文庫 な 3-10)
月光 第2巻 (2) (白泉社文庫 な 3-11)
月光 第2巻 (2) (白泉社文庫 な 3-11)

月光は、あれですね。
語るときに、まず「Over the lights・Under the moon―月下飛行―」を単体で語って
それから全体の月光について語りたいと思います。

というわけでまず「Over the lights・Under the moon―月下飛行―」

なんかこないだ話したときに
時代背景みたいなのから話していたので
その辺が中々抜けないんですが
花とゆめ雑誌購読派だけでなく、後から知ったという方もいるかもしれないというの前提で
流れから話しますと
(完全に私観です)
グリーンウッドの連載が終わった後、
「ダーク・エイジ」(フラワー・デストロイヤーとてっちゃんシリーズの完結編の位置づけ)の連載があって
「Emerald Cave 蛇の谷」が前後編ではいます。
那州先生は、私なんかがいうのも何ですが
割と絵の調子のいい悪いが激しい人で
グリーンウッドの終わりごろというのは、結構絵が荒れていたんですよね。←私見ですよ。



割と体調が悪いとか、連載の辛さみたいなのについて
よく書かれていたので
時間がないとか、追い込まれると辛いとかそういうことが出てしまう人何じゃないかと思うのですが
それが
「ダーク・エイジ」になると一転、ものすごく絶好調な絵になるわけです。
ここから、「Emerald Cave 蛇の谷」までは
書いてる本人も、絶好調だと思っていたんじゃないだろうか。

そして、次の連載が「天使とダイヤモンド」になります。
これに関しては、SF大会でも話が出たんですが
この話が好きだ。という人もいることにはいるだろうと思うのですが
私自身、あのラストとかいいなあと思うところもあるんですけど
作品としてはこの話は打ち切りだったわけで
しかも単行本の収録のされ方がものすごい……(苦笑)

那州先生の話の、雑誌掲載順からするとものすごいメチャメチャな単行本収録は
中々、ほかの作家さんとは比較にならないものがあって
自分の記憶と照合しながら話すのは結構難しいものが……あったんですけど

この後の作品の発表のされ方が
「美形いりませんか?」SF短編。サヨコセブンの話ね。
その後に
「Over the lights,Under the moon―月下飛行―」(「月光」の第一話)
が1993年のはじめに本誌にのって、その後
「それからどしたの?仔猫ちゃん」の連載が入るんですよね。
その連載の後に、秋、増刊号に
「天使とダイヤモンド/完結編 」が読みきりとして載ります。
その後にやっと
正式に「Over the lights,Under the moon―月下飛行―」の続きとして
「月光」が連載されるわけです。

「Emerald Cave 蛇の谷」まで絶好調だった絵の方は
「天使とダイヤモンド」のときは、悪いというわけではなかったと思うのですけど
物語や画面のメリハリがあまりなかったために
(あまりにも淡々とし過ぎていたために)
やはり受けが悪かった。ということもあるだろうし
「美形いりませんか?」のときはちょっと絵が荒れているんですよね。



それが、「Over the lights,Under the moon―月下飛行―」になると
急激に持ち直す。
読んでいた当時は、余裕があったのかなあと思ったのですけど
むしろ逆で、世の漫画家さんたちが恐怖する年末進行の中で書かれたそうで
そんな状況にしては、背景やコマ割りに“冴え”が見られます。
特に、コマ割りに関しては、“冴え”があるかないかというのが
一般的に認知されるの難しいと思うのですけど
物語の流れが悪いなーとか、読みにくいなーとか
そこまで行かなくても、次へ次へと推し進める力が弱いとか
そういうのが、あまり調子がよくないときの漫画家さんのコマ割りだと思うのですけど

物語が動いている話のときの絵コンテが
絶妙にいいというのは
たとえば同じ那州雪絵の作品であっても
「ダーク・エイジ」と「Over the lights,Under the moon―月下飛行―」
がアクションものとしては最も絵コンテに"冴え"が見られると思うのですが
「妖魔襲来復讐鬼」なんかはそこまでよい。というほどでもない気がします。

おそらくこれは、ある程度書いてるときに結末が見えていて
ストーリー(プロットとストーリーという意味での比較する意味でのストーリー。時間軸に沿った時間の流れ展開)を描いているときでも、その奥に書き手が意識しているともなく、プロットが流れているためではないかと思う。
プロット(意図や疑問に沿った展開)が、ストーリーの奥に流れている話のとき
(作者がプロットを操り切れているとき)
最も絵コンテが"冴え"るのではないかと思う。

絵コンテやコマ割りに関しては
レビューとしてはまったく関係がありませんが、
思いついたときに書いておかないと忘れてしまうので
書いておきます。むしろここは単なる趣味。



しかしここで、心がセンシティブになるのは
そうやって絵もコマ割りもいちばんいい状態であったにもかかわらず←私見
この時すでに、時代が移り変わっていたというか
当時、花とゆめを読んでいた一番若い層には「絵柄が受け付けない」とか「話がわからない」といった空気があったのではないかと私は感じていたのでした。
そして「月光」の連載を終えた後、那州先生自身、次の連載を花とゆめでやることはなく
私自身も、このころを境にして急激に、白泉社の漫画が面白くないと感じるようになり
雑誌から離れていったのでした。
(今は単行本も殆ど買っていませんが……)

現在のこども向け作品(最近の若者の精神年齢の低下……二〇年前の中学生ぐらいと比べると、精神年齢が低くなっているため、中学生以下は小学生程度の精神年齢の感覚)
から鑑みるに
絵が何を意味するのか。
といったこと読み取る能力が、一時期の同年代の人より圧倒的に衰えていると思われる。
これは、表意言語を操る能力が下がっていることと関連があるのではないかと私は考えているところなのですが
絵としては、印象派的な「風」や「空気」よりも、写真的な精細さ、細かく手の込んだものが好まれる傾向が続いているものの
イラストとしての絵ではなく
漫画としての絵――絵から意味を読み取るということは出来なくなっているようで
その結果、最近の漫画では必ず
絵に対して、その絵が何なのか説明する言葉が入るのが仕様になっているようです。

この絵は「悲しんでいる絵ですよ」「特定の人物に惹かれている絵ですよ」

少し前の漫画であれば、表情で見せるだけで、文字としてモノローグやセリフで書かれることはなかったはずなのに、この絵は悲しんでいる絵ですよ。という文字での後押しがなければ
絵が何を意味しているのか読み取れない人が増え
その結果
本来メディアとしてはポリフォニックな構造持っているはずの漫画という媒体が
薄っぺらいものになってしまった。



表情と状況とセリフやモノローグ
その全てを別々の意味を持たせることで、物語に奥行きの持たせることが
漫画としての一番の特性であったはずなのに
全てが違う意味で描かれた場合に
違うものを違うものとして読み取ることが出来ない人のために
それぞれに違う意味を持たせて書くということを捨て去ってしまった。

コマ割り自体も、アニメの影響がずいぶんと進んでいるのではないかと思う。
本来、アニメでのいい絵と漫画でのいい絵と言うのは違うもので
アニメと漫画のコマ割りもだいぶ別れて行っていたはずだった。

たとえば、アニメの場合は人物のバストアップにセリフが被る方が
どの人物が話をしているのかということがわかりやすいため
シーンによっては、ロングではなく、アップの人物の入れ替えによって
会話が進む方がわかりやすいことがある。

けれども漫画の場合は
吹き出しに指向性をもたせられるので
一つのコマの中に複数の人間は話している場合でも
ある程度混乱させずにいれ込むことができる。

創作同人誌の漫画で見かけたのですが、
一コマに一人、二人向かい合うようにコマを二つ並べて
一番最初のコマで一人が話し、次のコマでもう一人が話し
という形の会話(※下の絵参照)が漫画の九十%を締めていて



一つのコマで複数の吹き出しで話せば済むところ(※下の絵参照)を



ずっと上の絵の形で話をしている。

それが、その人のスタイルだと言ってしまえばそれまでだけれど
話のテンポが悪くなるし、ページ数も増える。
頁当たりの話の密度が下がるのである。

同人誌の場合はまぁ趣味の話ですから
ページ数が増えても、印刷代を負担するのは本人ですし
いいのじゃないかと思いますが
プロの場合は、最終的に頁当たりの話密度が下がるということは
本来だったらば、もっと少ないページ数で、もっと話密度が高いところで
楽しませてくれるはずなのに
そうやってコマを分けることで、書き手は、ページ数が稼げる=労力を少なくして原稿料が稼げる。とも言える。
一コマに二人俯瞰で書き込んで、セリフ吹き出しを二つ入れるよりも
二コマに分けて会話させる方が作画上、書くのが楽なのである。



また、アニメと漫画のコマ割りが違う一番の理由は
アニメの場合は、絶対時間の中で多数の絵を流すことができるために
書かれている絵そのものは、漫画よりも圧倒的に多い。
漫画は、動きの絵が少ない分だけ、描写する部分を選択していると言える。
アニメの一番いい絵と漫画の一番いい絵が違うのは
この、動きのない絵の数が違うことに由来しているのではないか。

アニメーター出身の人の漫画だと
この選択の仕方が、漫画とは全然違う。
そのため、コマとコマの間がつながりが悪いというか
バランスが悪くなってしまう。

一番いい形の漫画だと、アニメと比べると、たくさんの動きがカットされていても
コマからコマへ、読み手はすんなりと渡っていけるけれど
コマの中にいれ込む動きや絵の選択に失敗していると
無駄にコマが多くなったり、読み手が戸惑ってしまったり、話のテンポが悪くなったりする。

最近はおそらく、より漫画らし漫画のコマ割りを読むよりも
アニメをたくさん見ている状態で漫画を描く人が増えて
こういった現象が増えてきているように思う。
すでに、アニメの紙媒体化であって、漫画ではないということ。

先日観た、漫画原作のアニメがあって
これが、通りいっぺんに話が進んで行く。
こういう特性のキャラクターがいたら、こういうふうな過去があって、こういうオチになる。
というのが誰でも想像できるとい話が進んで行く。

この場合、ありきたりなラストに話が進んできたことが問題なのではなく
話が、その通りに進んで行くことが問題なのではないかと思う。
そこにプロット建てのコンテをいれこめば――もう少し、見せ方を工夫すれば
もう少し引き込まれるような構造になるはずなのに
主人公に対して、新しいキャラクターを出して、こういうタイプのキャラクターにはこういう過去があって
と考えた通りに話が展開してしまう。

そこに、面白さはどこにもない。
面白さを演出する技術はない。

しかも、話の展開が一応ストーリーらしきもので進められた後
一番最後に、キャラクターが今回の話を、説明セリフで全て解説してくれるのである。



おそらくは原作の漫画がそういう構造になっているのではないかと思うけれど
これは、もうすでに漫画じゃないだろうと思う。
絵は補助的なものであって、書かれている文字を全て抽出すれば
あらすじになっている――そのあらすじに絵がついているだけの絵物語である。

また、別のケースの駄目さもある。
漫画は、小説やアニメと違って
物語と直接関係していない事象を画面の中に入れ込んでいても
小説やアニメほど違和感を持たれることもないため
一つの画面の中に多様性を入れ込みやすい。
ベクトルの方向を複数に拡散している内容を入れ込みやすい。

といった構造に耐え得るメディアであった。
(アニメも古いアニメだと、もう少し、画面の中に多様性が込められているけれど
アニメの方が、構造上どうしても、小説と同じで、物語と直接関係ないものが
中に込められていると、その意味が宙に浮いてしまう傾向にあるように思う)

しかしその情報を読者が読み取れないということが明らかになってくると
発信する側――編集者や書き手は
あっさりと、漫画の特性を捨て去るのである。

そして特性を失った漫画は、結果として
ほかのメディアに勝てなくなっていったという風に見ることもできるのではないか。


それでもって
「Over the lights,Under the moon―月下飛行―」に戻る。



この話の終わり方というのは、たとえばよくある夢オチで
夢だったんだけど、ポケットには小石が……的ラスト。

ある意味すでに定石のこのパターンに類する終わり方といっていい
と思うのですけど……
うーん
これ、六年か七年ぐらい前にやはりSF大会で
SFマガジンの塩沢編集長の話の好みについて友人と語ったときに
男の人は、意外と夢から覚めた時にポケットに小石が欲しい生き物なのではないか。
みたいな話をしたときがあって
それ以来、「ポケットに小石」は、私的に笑いのツボポイントになってるんですけど
(「おまえもか!」的意味で)
アニメ映画版「時をかける少女」の細田監督が
村上隆とのコラボレーションで作ったルイヴィトンのアニメについて語ったときに
やっぱり
「夢から覚めた時、何か残るものが欲しいでしょう」というようなことを言っていて
やっぱり「ポケットには小石」パターンを使っていて
もちろんこういうの例をあげると、枚挙にいとまがないと思うのですが
「千と千尋の神隠し」の原案となったという話の
柏葉幸子さんの「霧の向うの不思議な街」なんかもその類例で
(「千と千尋の神隠し」は基本的に「霧の向うの不思議な街」のプロットを使い
さまざまな部分で下敷きにしている)
「Over the light, Under the moon」も、同様に
現実にはあり得ない“夢”の時間が終わった後に
それが、全て“夢ではなかったよ”というためのアイテム
――カイトのマーカーが藤美の手元に残る。

ちょっと見には、このマーカーがよく言われるところの
「夢から覚めた後にポケットをさぐってみると夢のなかで拾った小石が残っていた」
の小石の役割を果たしているように見える。
ところが
この話のオチは、そこにとどまらないのが一番の物語の“肝”なのだろうと思う。

それはある意味、初恋の恋愛物語的な構造が全編を貫いているからで
コンビニで一番最初にカイトと知り合ったきっかけは
「オーバーザライトっつーんだよ」というカイトの一言(声)である。
そこから発展して
藤美がアイドルとリアルに会ったことで、アイドルに恋をする。という部分と
カイトが異世界人であり、何の能力も持たない藤美に――当初カイトは、異世界人や能力を持たない人間に対する差別的な偏見を持っているように描かれているにもかかわらず――惹かれていく様子が
きめ細やかに描かれている。

おそらくは“初恋”同士らしい二人の恋愛は
「初恋は実らないもの」という定石の通りにそれぞれの胸に何かを残しながら、別れていく。

カイトからマーカーという“小石”を受け取った藤美に
けれども
本当の最後に残されたものは、物理的に存在するマーカーではなく
最後の最後に藤美の名前を叫んだカイトの“声”だった。
その“声”こそが、この話の本当の意味での“小石”というところに
女の子の夢が詰まっているように思う。
“声”から始まった初恋は“声”によって終わる。
手元に残された記念品ではなく、好きな人が最後に自分の名前を呼んだ“声”こそが
ずっとずっと
時を経ても、風化していかない夢の残滓なのだと――。


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<ゆや/0801205> 


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