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厭う春〔晶馬×苹果〕


 ふと見あげれば、視界に入る空はやわらかく霞んで、春を滲ませていた。
 入り組んだ住宅街をただ歩いても、他人様の庭に芽吹く緑の先は、赤色を帯びて、今にもはちきれんばかりに膨らんでいる。
 晶馬は幼さが残る顔をわずかにしかめて、その生命の息吹から目を逸した。

 また、春が来るのだ。

 桜咲き、木の芽息吹、啓蟄に羽虫沸き出す春。
 人々がうれしそうに外に這い出て、色鮮やかな薄い衣を纏う春。

 テレビのニュースではひっきりなしに桜前線を報じて、今年は遅れているとはいえ、晶馬達が住む街にも、刻一刻と近付いているのを感じないわけにはいかなかった。
 その疎ましいニュースから逃れるのは、過大な努力が必要で、晶馬はこのところ、いつも俯くき加減に歩いてしまう。
「ただいまー」
 不貞腐れたような声を出して、玄関の引き戸をガラリと開く。
 小さな公園の隣にある、これまた小さな家は、外のザワザワとした綻ぶような気配とは対照的にしんと静まりかえっている。いつもならその静けさが胸に刺さるのに、今日は何故かほっと胸を撫で下ろした。
 もちろん、この家に誰もいないことはわかっていた。
 両親がいなくなって以来、大人達はとっくの昔にこの家にめったに来なかったし、妹の陽毬は主に病院に住んでいて、たまにしか帰ってこない。唯一の同居者は同じ歳の兄だったけれど、その兄――冠葉が先に帰っていないことは、考えるまでもなかった。
 最後に見た時、冠葉は女の子たちの制服の群れに囲まれていて、その群れをかきわけ、赤い頭に声をかけようと思ったところで、晶馬は動きを止めた。冠葉は形ばかりは嫌がっていたけれど、その顔はわずかに緩んで、女の子たちの申し出にまんざらでもない気持ちが容易に見てとれた。
 女の子たちは次々と冠葉の制服のボタンを手にしてその頬を赤らめ、冠葉に握手をねだって、中には泣き出してしまう子までいた。その様子を見て、晶馬の気持ちが醒めた。
「ばかばかしい」
 吐き出すように小さく呟いて、晶馬は制服の群れを離れる。
 卒業式に女の子が男の制服のボタンをもらうなんて儀式を最初に思いついたのは誰だったんだろう。
 忌々しさに舌打ちして、その誰かを心の中に蔑む。
 いずれにしても、まったくボタンのなくなった制服はリサイクルに持っていっても、お金にならないかもしれない――冠葉がそんなことも考えず、気前よく、女の子たちにボタンを分け与えてしまうことさえ、腹立たしい。

 門のところに置かれた『■■中等学校 第○回卒業式』などと書かれた立て看板を一瞥すると、晶馬はもう二度と来ることはない中学舎に背を向け、歩き出す。三年間通いなれた通学路を、晶馬はいつもと変わりなく――感傷を交えない足取りで帰ってきた。
 あの様子じゃ、今日は外で誰かと夕飯を食べて来るだろう。
 そう思うと、晶馬の日課である夕飯のための買い物さえしてくる気にならなかった。
「本当に、ばかばかしい……」
 晶馬は居間に乱雑に寝転んで、人気のない冷えた空気を吸い込む。
 いつもなら、晶馬は制服で寝転ぶなんてことはしないけれど、この制服は今日で着納めなのだと思うと、皺がつくことを気にするのもばかばかしい気分だ。そもそも、いつも晶馬が制服をすぐハンガーにかけるようにうるさいのは、冠葉のせいでもあった。
 晶馬とは対照的に、いつも制服のままその辺に寝転んで、あるいは脱ぎ散らかしてしまう冠葉は、どこのお殿様かと小言を垂れたくなるぐらい、だらしない。
 晶馬はいつも呆れるばかりだ。
 でも今日は、その冠葉もいない。
 ひとりでいる晶馬が、小言を言うからには冠葉の見本にならなくてはと、必要以上にきちんとしなくてはならない理由はない。あるいは、もし冠葉がいなければ、自分も冠葉のようにだらしなく育ったのだろうかとも考える。
 まるで働きアリと怠けアリの法則のように、誰かひとりに先にだらしなくされると、どうしても、もうひとりはきちんとせざるを得ないわけで――そんなことを考えると、晶馬は心臓に冷たい欠片がささったかのようにちくりと痛む。

 もしも冠葉がいなかったら――。

 二人でいるときは、そんなこと考えもしないのに、ひとりになると、いつもそんな考えが心をよぎる。そして考えた次の瞬間、必ずと言っていいほど、そんな考えを抱いたことにいたたまれなくなり、罪悪感に苛まれるのだ。
 でも今日は、その罪悪感に簡単に屈する気分じゃなかった。
 もしも自分がひとりだったら、あるいは冠葉もいなくて陽毬とふたりだったら、だらしなく制服のまま居間に寝転んで、誰かに怒られているのは晶馬だったかもしれないのだ。
 晶馬は絨毯に顔をつけて、わずかに体を丸めながら、漠然と部屋に視線をさ迷わせた。
 冠葉と拾ってきたソファー。リサイクルショップで買ってきた飾り。襖の穴をごまかすために貼った色とりどりの紙。
 それは妹を喜ばすためだったけれど、その方法や趣味はどれも、冠葉のセンスで彩られている。
 もしも冠葉がいなかったら、この部屋はこの部屋でなくなる――晶馬はどこか醒めた心地でそんなことを思う。
 けれども、そうではなかった。
 冠葉はこの家にいるし、陽毬もいて、晶馬はひとりじゃない。
「なんてばかばかしい……」
 晶馬は醒めた顔をわずかに歪めて、ため息と共に目を閉じた。

 
 *   *   *


 そうしてどのくらい意識を失っていたのか。
 気付いた時には部屋は薄暗闇に沈んでいた。
「うう………………」
 寒さを感じて、晶馬は我に返った。
 うっすら開いた視界の中には音もなく、動くものもなく、一瞬、身動ぎすることさえ躊躇うほど、部屋は無機質な塊と化していただった。
「寒……」
 いつのまにか体は冷え切っていて、晶馬は体を震わせた。何度かその寒さを感じていたはずなのに、意識が沈み込んでいたのだ。
 体に染みついた冷たさが、夢の中にまでやってきて、晶馬は雪が積もった街の中を歩いていた心地がする。
 このところ随分日が伸びたとはいえ、既に陽は傾いて、現在の時刻を知らせる。
 柱時計の針は午後六時を指して、部屋が薄暗いことから、晶馬の予想通り、冠葉は帰ってこなかったことを伝えていた。
 いつもなら、夕食を食べ始める時刻。
 一人きりの部屋と何も載っていないちゃぶ台を一瞥して、晶馬は目を眇める。
「ばかばかしい……」
 そう呟くと、皺だらけの制服のまま、部屋を出て行った。

 
 *   *   *


 空きっ腹を抱えて彷徨いだした夕刻の街は、慌ただしい気配に満ちていた。
 黄昏の薄倉闇が制服の皺を覆い隠すのに、半ば安堵しながら、晶馬は家路を辿る人々に逆らって、駅へ向かう。初乗りの切符だけで改札口を通り過ぎると、ぼんやりとホームに入って来た電車に乗り込んだ。
 発車ベルが鳴り、電車が動き始めて駅を通り過ぎても、繁華街は途切れることのないまま、光溢れる風景が、窓の外を流れゆく。その移り変わりを視界の隅に捉えながら、晶馬の瞳は実際には何もはっきりと映していなかった。
 電車に乗ると、いつも奇妙な気持ちに囚われる。
 今すぐにも隣りに吊革を掴む人や、目の前に座る人々が晶馬に非難と罵声を浴びせかかるのではないかという畏れ。息苦しい感覚。自分はここにいてはいけないのだと周囲の全てが喚き立てる――その感覚はこの季節に殊更、強くなる。
「はぁ…はぁ……」
 息苦しくなった喉に手を当ててみても、呼吸は苦しくなるばかりで、座り込みたい。そう思ったところで、電車が駅のホームに滑り込んだ。
 扉が開くのももどかしく、外へと転がり出ると、新鮮な空気を肺に流し込む。
 ふらふらと倒れ込むベンチを探していたはずなのに、人の流れに逆らえないまま歩いて、気がつくと階段を下っていた。どうしようかと一瞬迷ったけれども、考えるのも面倒で、そのまま人波に流されるまま改札口を出た。
 自宅近隣の駅は、けれども過去に、さほど利用した記憶はない。

 道に迷うかもしれない。

 頭の片隅で警告が聞こえる。

 でも――。

 晶馬は歩き出した。
 今はむしろ、道に迷いたい気分だった。
 目に付いた背中を追いかけて、ガード下をくぐり抜ける。雑居ビルのネオンが目につくともなく広がる。見上げた視界に映る東京の夜は、明るい。暗闇の天空が狭い。
「もっと……」
 もっと暗闇を。
 心が赴くままに明るさから逃れて歩く。ぎらつくネオン看板から逃れて。人々が集う店の灯りから逃れて。もっと暗がりへ――そうして何度か角を曲がると、ひときわ暗い一角に行き当たった。
 光から追われる罪人のように暗がりに足を踏み入れると、土の匂いが鼻について、晶馬は知らず詰めていた息を吐き出した。
 この暗い場処には自分の居場所がある。
 そんな気がしたのだ。
 石造りのベンチに座り込んで、暗闇に俯くと、ひんやりとした感触に心までも浸食されていく。心の奥底から崩れて、暗闇に囚われていく中、感情は凍りつき、凍った心臓から冷気が体を戒める。四肢が動きを止める。
 それでいい。
 晶馬は投げやりに、その冷たさに身を任せた。
「「三月二十日なんて来なければいいのに」」
 心の澱が思わず唇から漏れ出ただけなのに、言葉は二重に聞こえて、晶馬ははっと振り返った。
「「え?」」
 振り返る肩先の向こう――すぐそばに、樹の根もとに少女が立っていた。
 薄暗闇にコートを羽織ったセーラー服姿があった。
 制服姿の少女は薄暗闇に浮かび上がるというより、闇に紛れていて、晶馬は目を瞠る。瞬きすら、その間に少女がいなくなってしまう気がして、目を閉じることができなかった。暗闇と制服姿の少女との組み合わせは、どこか妙な気がして、晶馬は首を傾げて少女から目が離せなかった。
 よく見れば、少女が立っているのは桃の木の下で、ピンク色のぼんぼりのような花がうっすら少女の頬に彩りを添えている。暗闇でよく見えないけれど、少女の顔は花の精といっても通じるそうなほど可愛らしく見える。
 それでいて、こちらを見返している瞳には強い光が宿っていて、花の精のような曖昧で儚げなものとは相容れない気もする。少女から感じる、わずかな違和感の発端は、そのせいかもしれなかった。
「何をしてるの?」
 考える前に、晶馬は、問いかけていた。
「あなたこそ、こんなところで何してるのよ」
「え。いや……僕はその……」
「自分が答えられないなら、人に聞かないでよ!」
「ご、ごめん」
 少女の剣幕に圧倒されて、謝罪の言葉を口にする。
 言われてみれば、自分のことを棚に上げた問いかけだったかもしれない。
 晶馬は身を縮めながらも、言葉を継ぐ。
「でもその……」
「何?」
 話しかけようとすると、喧嘩腰が返ってくる。
 それでも、晶馬は自分の中に、躊躇う気持ちと、この問答を面白がっている気持ちを見いだして、少女を凝視せずにはいられなかった。

 この子は何だろう?

 凍っていたはずの晶馬の心が動いていた。
「……ひとりに…なりたかったんだ。ひとりで、暗い場所にいたかった」
 目を伏せて、気持ちを吐き出す。
 思いもかけず、この暗闇の場所で自分と同じ言葉を吐いた少女に会って、気持ちが緩んでいたのかもしれない。
 晶馬の顔は、家を出たときの醒めたような表情ではなく、苦しげに歪んでいた。
「ひとりに……」
「うん」
 晶馬の言葉に、少女は一瞬目を見開いて、それから手を顎に寄せて、考え込むような仕種をした。
「………………そう……そうね。私もそう。誰も知らないところで、ひとりになりたかったの」
「誰も知らないところ……あ、ごめん。僕がいて、邪魔してるよね」
 慌てて立ち上がろうとすると、少女の手が晶馬の肩を掴んで、この場所にとどめる。
「違うの! ……いいの。人がいないところじゃなくて……私のこと、誰も知らないところに行きたかっただけなの」
「君のこと、知っている人がいないところ?」
「………………」
 晶馬は少女の言葉を計りかねて、考えるともなしにオウム返ししていた。
 自分はどうなのだろう。
 自分を知る者の目から、逃れたかったのだろうか。
 好奇の眼だけでなく、冠葉や陽毬さえ、いないところに来たかったのだろうか。
 そうかもしれないとも思う。
 そうではないと、反証するだけの感情はかき集められなかった。
 ただ、考えがまとまらないだけなのかもしれない。
 いつもこの季節になると、心が混乱して、高倉晶馬という人間が一体どんな人間なのか、自分が何を考えてるのか、何を望んでいるのかといったことが、まったくわからなくなる。でも――。
「春は嫌いだ」
 晶馬は唐突に、嫌悪感と共に冷たく言い放った。
 その語気の強さに、少女がわずかに後ずさった。
 ただその気持ちだけが、今、晶馬の中にある唯一のものだった。
「……産まれてこなければ、よかった…………」
 体を折って、膝と腕に顔をうずめて絞り出すようにささやいた。
 体の弱い陽毬や、同じ日に生まれ、父親に傾倒している冠葉の前では絶対言えない言葉。
 言葉に出来ないからこそ、その想いは晶馬の中で澱となって溜まり、三月二十日が近付くと、どこかで吐き出してしまわなければ、平静が保てないほど、心の中に巣くっている。
 いきなり、知らない少女に吐き出してしまうほどに。
 そばに立っているはずの少女から、長い間、物音が途絶えて、膝にうつ伏せている晶馬は、少女は呆れて立ち去ったのだろうと考えた。またひとりになった。そうなりたかったはずなのに、晶馬は落胆していた。胸に痛みを感じて、起き上がれないでいると、土を噛みしめる気配が聞こえて、はっとした。ささやくような少女の声が聞こえた。
「私も、産まれてこなければよかったのかなって、思うことがある」
「え?」
 晶馬は顔をあげた。
 少女は明後日の暗闇を見つめて、どこか思いつめたような様子で、言葉を続ける。
「私が産まれてこなければ、お姉ちゃんは……ううん。私の家族は、家族のままでいられたのかなって……時々考える」
 考え考え吐き出された言葉を聞いて、晶馬は一瞬でも、少女が自分に気を使って、晶馬と同じことを言ったのではないかと考えたのを恥じた。
 何か声を掛けようかと口を開いて、でも、何もかける言葉がないことに気づいて、苦虫を噛みつぶしたような顔になる。
「そっか……」
 そう言うのが精一杯だった。
「うん……」
 その短いやりとりに、何故だか、お互いの思いがどこかしら通じ合っているような心地がして、再び沈黙がふたりの間に流れるのに、その沈黙さえ会話の一部のように感じていた。少女と晶馬は沈黙の言葉を交わしていた。その感覚に引っ張られるように、晶馬は苦笑いしながら、努めておどけた声を意識して声を出した。
「実は明日、僕の誕生日なんだ」
 極めて何気ない会話の続きのつもりだった。
 けれども少女は短く息を飲んで、大きな目を更に瞠った。
「私も! 私も実は、明日、誕生日なの!!」
 勢い込んで、晶馬の制服の襟を掴んで、少女は晶馬に顔を近づける。
「ええっ?!」
「すごい偶然だわ……っていうか、まるで鏡を見てるみたい」
 近付くと、少女の頬が紅潮して、その目が興奮に潤んでいることさえはっきりわかった。
 意志の強そうな瞳をしている少女が、自分と同じように、“産まれてこなければよかったのかも”なんて迷いを口にするなんて。
 一体なんで。
 そんなことを考える晶馬のそばで、少女はブツブツと訳のわからないこと呟き続けている。
「これは何かの罠なの? 私と多蕗さんの間を引き裂く運命のトラップ? 私、試されているの? それとも――貴方一体誰?」
「え?」
「ううん、ダメ!! ダメよ駄目!! 聞かなかったことにして! 折角私のこと知らない人なんだもの、名前を聞いたら、知らない人じゃなくなっちゃう!」
「うん、そうだね……」
 晶馬は口元を引き攣らせて、控えめに同意した。
 なんだかわからないけれど、少女は晶馬が、“知らない人”であることにこだわっている。それなら、名乗らない方がいい。それは間違いない。晶馬にしてみても、その方が気持ちが楽だ。
 でも。
 そう呟く心の声を押し殺して、晶馬は少女を知らない人として話すことにした。
「鏡……か。そうだね……同じ日に産まれて、その前の日にひとりになりたくて、産まれてこなければよかったって呟いて……こんな偶然、そうそうないよね」
 言葉にしてみると、まるでよくできた作り話みたいだ。と言う気がして、晶馬は小さく空笑いした。それでいて、明日――三月二十日のことを考えると、今にも叫び出したような、泣き喚きたいような心地に襲われる。
「永遠に三月二十日が来なければいいのに」
 そうすれば、晶馬は自分の罪を忘れていられる。
「でも、あと数時間すれば明日になるわ」
「……産まれて、それが罪を背負う事なら、何で人は生まれるんだろう……」
 晶馬が生まれた日。その日が晶馬の両親が罪を犯し、晶馬の選ぶ余地も与えずに、罪の刻印を施した。
 誰にも知られないまま育っても、結局はその刻印が、晶馬とそれ以外の人間を隔てた。指差され憎まれる罪深き刻印。
 表情を失って、晶馬は石のベンチに力を吸われるように肩を落とした。
「私……お姉ちゃんが死んだ日に、私が生まれたの」
 少女はいつのまにかベンチの隙間に座り込んで、晶馬が顔をあげると、もっと端に寄れと手を払われる。にじり寄って少女にスペースを明け渡すと、少女は話を続けた。
「周りの人は、私のこと、お姉ちゃんの生まれ変わりだって思ってるみたい。でも……だから時々、私が生まれなければ、お姉ちゃんは死ななかったのかなって」
「そんなことっ!!」
「……馬鹿なこと言ってる?」
「そんなこと……」
 晶馬には何とも言えなかった。少女には思い込みじゃないかって反論するのに、晶馬自身がそう言われたら、絶対にその言葉を受け止められないってわかってる。少女と晶馬の想いは似て非なるものだ。理解出来ないかも知れないけれど、だからといって、簡単に否定は出来ない。
「ごめん……」
 謝罪の言葉が口をついて出た。
「ううん! いいの! ただ……ただ、言いたかっただけなの。うちでは口に出せないから」
「うん……」
 その気持ちをわかってるはずなのに。
 気を使わせてしまった気まずさも手伝って、晶馬はまた俯く。
「お母さんもお父さんも大好きだけど、大好きだから、言えないってこともあるのね」
 闇に向かって吐きだすような声に、横を見ると、少女は天を仰いでいた。
 凛とした横顔が暗闇に白く浮かび上がって、その消え入りそうな輪郭が、初めて儚げに見えた。
 神域の奥の暗がりは、通りから離れて人通りもなく、耳を澄ましても聞こえてくるのは、少し離れた道路の街灯が苦しげにじじっと揺らぐ音だけ。時折風が吹いて木立を揺らすけれど、その一瞬のざわめきはあっと言う間に暗闇に消えてゆく。
 晶馬も少女につられるように天空を仰ぎ見た。
 住宅街に近いとはいえ、東京の空は明るく、わずかな星は霞んでいる。
 月は上がってないか、見えていないかで、そのどちらなのか晶馬にはわからなかった。
 ただこうして黙って少女と隣りあって座っていると、“明日”のことが遠ざかって、“現在(いま)”だけが存在して、晶馬の苦しみなんて、永遠に来ないような心地がした。安らぎ――そう言っていいかも知れない。晶馬はこの見知らぬ少女といることで、家にいるときには味わえない安らぎを感じていた。
 この少女も、同じことを感じているかもしれない。
 そんな思い上がった考えが脳裏をよぎるくらい、少女といる沈黙は心地よかった。
 このまま、三月二十日のことなど忘れてしまいたい。
 晶馬がそんなこと思った瞬間、沈黙は破れた。
 けたたましい電子音がして、感じていた調和は消え去る。
「え、あれ?」
 電子音は晶馬の制服から響いている。
 慌てて、ポケットから取り出すと、電子機器の液晶には冠葉の――兄の名前が浮かんでいた。
「冠葉……」
 その名前を見つめて、晶馬はそれが、まるで見知らぬ名前のように茫然と目に追った。
 頭の回路が上手く繋がっていないように、見知らぬ人の――それでいてよく知っている子どもの顔が浮かんで、それが誰なのか、晶馬は知っている。よく知っているはずなのに、何故か顔が思い出せない。行く手を塞ぐ檻の合間から手を伸ばすのに、指が届かない。伝えたいのに、伝わらない――そのもどかしさが体中を駆け巡って……
「でなくていいの?」
 柔らかくもはっきりとした声に、晶馬は我に返った。
 驚いて横を見ると、大きな瞳が、心配そうに覗き込んでいる。
「携帯、出なくてもいいの?」
「え、あ…ああ、あ」
 何を思ったのか、晶馬は携帯をお手玉して、そのまま地面に落としてしまった。その空中、音は途切れて、呼び出しの点滅する光点が消える。辺りはまた暗く静まりかえって、晶馬と少女が感じていた調和の幽玄も、晶馬の瞼の奥を過っていった幻想も、気配も残さずに掻き消えていた。
 目の前には、現実の神社の敷地があるだけだった。
 晶馬が茫然と身を固まらせていると、傍らの少女が動いて、晶馬の携帯を拾い上げる。
「はい」
「あ、ありがとう」
 どもりながら受け取ると、少女はさっと立ち上がった。
「私もいかなくちゃ」
「どこに?」
 どこか清々としたような少女の声に、晶馬は戸惑いの声を返す。
「家に帰るんじゃない。ここでこうしていても、やっぱり明日は三月二十日で、私の誕生日だもの。それにそろそろお母さんが帰ってくる時間だから、流石に家に帰ってないと……」
「あ、ああ、そうか……家に帰るのか……」
 晶馬は呆けたような声をあげた。
「どこに行くと思ったのよ?」
 呆れたような少女の声に、晶馬自身、首を傾げる。
 自分は、少女がどこに行くんだと思ったのだろう?
 明日に? あるいは明日が来ない場所に?
 晶馬にはわからなかった。
 でも、少女の声の響きには、まるで翼が生えたような軽やかさがあって、本当にどこか晶馬の想いもつかないような場所に駆けていってしまいそうな気がした。
 そう思うと、晶馬の心も軽くなって、さっきまでひとりでいたくなかった家に帰っていけるような気になった。
「ん? え? 九時?!」
 不意に手元の携帯に視線を落とすと、表示されている時刻は夜九時を過ぎて、晶馬が考えていたよりずっとこの場所に長居していたことに気づく。
「だから帰ろうって言ってるんじゃない。頭の巡りが悪いわねぇ」
 少女はスカートから石の粉をはたいて、腰に手をあてる。
「ご、ごめん。そうだね。もう帰らないと!」
 晶馬も立ちあがって歩き出そうとして、重大なことに気づいた。
「どうしたの?」
 動きを止めた晶馬に、不思議そうな声が追いかける。
「あの……ここ、どこ?」
「はぁ?」
 さっきまで穏やかだった少女の顔が、訝し気に歪んだ。
「いや、あの……気分が悪くて、電車降りて、そのまま歩いてて……っていうか、えっと、そのここどこの駅の近く……かな?」
 控えめに、上目遣いで少女の機嫌を伺う。
 目をむいた少女が、思い切り息を吸う音がした。
「…っかじゃないのー――?!」
 少女の高い声が、夜の住宅街に響き渡った。


 *   *   *


 結局、晶馬は拝むようにして少女にお願いして、最寄りの駅の近くまで連れてきてもらい、どうにか駅に辿り着いて、電車に乗り込んだ。
 帰宅時間も過ぎて、終電にはまだまだ時間帯に、電車の中はガラガラに空いて、晶馬は扉のガラス窓に顔を近づけて、そっと暗闇の中に面影を辿った。
 桃の花が咲いていた。
 その彩りを映した頬は、赤く、桃の花よりも赤く――むしろ、苹果を思わせるようなみずみずしさだと思った。
「三月二十日か……」
 僕が生まれた日。僕らが罪を背負った日。
 同じ日に生まれたという彼女が、同じように、生まれたことを厭うなんて、三月二十日は呪われた日なんじゃないだろうか――そんなふうにも思う。
 でも。
 晶馬はわずかに口元を綻ばせた。
 でもいつか、あの少女に出会うことがあったなら――名前も知らず、顔さえ定かでない少女に、もしも再び出会うことがあったなら――晶馬は、彼女を好きになってしまうかもしれない。
 そんな考えが頭を過る。
 これは晶馬だけの記憶。
 陽毬とも冠葉とも共有していない、晶馬ひとりだけの――ささやかな、存在意義。

 嫌いだった春が、
 自分の誕生日が、
 少しだけ好きになった。



[終わり]

 












中学生の卒業式ということで、制服どうしよう。とか思いながら、書いていたもの。
晶馬と苹果のやりとりは、テンポが良くて、いいよね。
実は私自身も、HARUコミのシーズンになると、地下鉄サリン事件のことを思い出します。
当事者である晶馬にとっては、自分の誕生日=トラウマ。みたいなところがあるのではないかと思ったのが、書こうと思ったきっかけです。
晶馬たちが純粋に自分たちの誕生日を素直に祝っていたのは
家宅捜索が入るあの日までだったんだろうなぁと思うと
結構せつないですね。
3月20日にpixivに上げてたんだけど、よく見たら、それ、推敲する前のデータだった……。
ま、まぁ、いっか……。
こっちは本にしたちゃんとした奴。


<ゆや/20120322>

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