その心に変わらぬ星を。「あのほしをしのぶにあげるよ」 光流がそういったのは、心からの言葉だった。 けれどもいわれた忍の方は、ひどく驚いた顔で光流を見返していて、今にも、何をいっているんだ。と問いたそうにしていた。 「手に入れたら、きっといいことがあるから」 光流は、どうかこの言葉が忍の心に届きますようにと強く祈った。 星はきっと忍を照らしてくれる。 手の中にある星を見つめると、指のまわりが暖かいオレンジ色に光る。 まぶしくて、どきどきする。 その気持ちを、どう忍に伝えたらいいのだろう。 光流は少し逡巡するように二、三歩、土手の上を歩いて、ゆっくりと息を吸いながら空を仰ぎ見た。 冬の空は真っ黒な空間がどこまでもどこまでも続いて、手を伸ばせば届きそうなのに、伸ばした指の先で空はもっと遠くに逃げて掴みとれず、ただ眩しい星をちりばめて広がっている。 綺麗な無限の宝石箱。 その中で、ずっと変わらない星を忍にあげたい。 「忍。ほらあれが北極星だ」 「そんなのいわれなくても分かってる」 「そうか?」 「あたりまえだ」 本当にわかっているのか? もう一度そう聞いたら、今度こそ馬鹿にしていると怒りだすかもしれない。でも。 光流は戸惑いと苛立ちをこめて暗闇の先を見つめた。 川から立ち昇ってくる湿気を含んだ冷気が鼻をついて、不意にくしゃみが出た。 「冷えてきたな」 間を埋めるように鼻をすすった。 「そうだな」 光流の言葉を聞いて、忍は今になって寒さを思い出したかのようにコートの襟を寄せた。その仕草を見て光流は気づいた。 光流がいった言葉の意味を、光流が忍や星をあげたがる意味を、忍がわからなくて当然だ。 生まれた場所も、育ってきた環境も全く違う。手に入れているものも、これから欲しいと願うものも光流と忍では同じものの方が少ない。 こんなにずっと近くにいても、お互いに考え方が違うのだと改めて突き付けられたようだった。 光流は言葉を失って、乾いた喉咽に無理やり唾を流し込んだ。その一瞬、光流の動揺を見透かしたように、真っ黒な風が、一、二メートルしか離れていない二人の間を吹き抜ける。この溝は、今、手を伸ばして忍を抱きしめても、決して埋まることはない。 人と人との間にある決して埋まらない距離。 そのことを光流はよくわかっていたはずなのに、今は無性に淋しく感じた。どんなにそばにいても、完全には分かり合えないというあたりまえのことがひどく不条理に思えて、苦い苛立ちが体中に蔓延する。 でもだからこそ。 心の中に、変わらない星を忍にあげたい。 星の光の眩しさも、その意味も知らない。 自分が、星をほしがっていることさえ知らないこども。 星の光に照らされても、その暖かさを感じることも知らないまま、暗がりを見つめて立つ――そう育てられた。 忍はきっと気づいていない。 自分の心に、星をほしがっているこどもが棲んでいることを。 「いずれかならず、この借りを返す!」 冷たい暗闇に慣れしたしんだ心は、むりやり光の下に引き出されて、泣き叫ぶ。その産声を光流は確かに聞いた。 「光流?」 呼びかけられて、目を硬く閉じていたことに気づいた。 「ああ……」 光流は答えにもならない声を出して、目の前にいる少年を見返す。 忍は初めて会った時より幾分大人びた顔になって、その目つきもしっかりしているように見える。 暗闇ばかりを見ていたその瞳の中に、今なら星の光を映すこともできるだろう。 そうしたら。 「……なんだか雪が降りそうな寒さだな」 「そうか?」 「雪国育ちには、東京で雪が降る気配が分からないのか。それとも……」 それとも、寒ささえも感じとれないのか。 そう口にしそうになって、慌てて喉咽の奥に押しこめた。 光流の感覚からすると、忍は時折妙に鈍いところがあるのだが、そのことを本人が気付いているのか、いないのか。 気にしているらしい、と感じることもあれば、どうやら気づいていないらしいと思うこともある。 今は後者だった。 「失敬な。ただ単に川縁を歩いているから寒いだけじゃないのか」 「なんだ。頭に血は巡っているようだな」 「どういう意味だ。それは」 「いや、特に意味はない」 「お前こそ、頭は大丈夫か」 「そうだな……」 答えを返す代わりに曖昧な笑みを浮かべると、隣りを歩く少年は一瞬目を瞠って、けれどもすぐにいつもの涼しい顔で呆れたように目を細めている。 その見慣れた表情が光流はずっと好きだった。 けれども同時に、心に星を宿した忍が、激しい慟哭を、強い感情を表すさまを見たいとも思う。 この感情を人は一体何と呼ぶのだろう。 光流は俯いて目を閉じた。どうしてか自然と口角が上がるのを抑えられない。今、光流が考えていることをすべて見通せる人がいて、光流の考えを非難したとしても、笑い出したくなる衝動を抑えることはできそうになかった。 「光流?」 呼びかけてきた声はどこか心配そうな調子を帯びていた。 心配するなら、もっと自分のことをすればいいのに。 光流はそれが勝手な考えだと頭の端で思いながら、顔をあげた。 踏みしめると、地面が鈍い音を立てる。乾いた土を光流の足はしっかりと踏みしめている。 「なぁ、忍」 光流は仁王立ちしながら呼びかけた。 目の前で、光流の言葉の続きを待つ忍は、ともすれば、暗闇の中に飲みこまれそうなほど、寄る辺ないように見える。それとも、いま見ている姿は単なる目の錯覚で、強い風が吹いたらあっという間に掻き消されるのかもしれない。 伸ばした手は空を切る。 そう思った瞬間、ぱんと軽い音がして、光流の手は忍の肩を叩いていた。 「あ」 思わず声を出していた。 「なんだ?」 忍が不思議そうな顔で光流を見返している。 「え〜と……腹が減ったな」 光流は所在なくなった手で頭を掻きながらいう。 「貴様はそんなことぐらいもっと簡単にいえんのか」 呆れ顔の忍に照れ笑いで誤魔化した。 「ラーメン屋ぐらいなら付き合ってやる」 そういって忍は踵を返して、大股で歩き始めた。光流は慌てて追いかけようとして、不意に立ち止まった。 少しずつ離れて行く背中に小さく呟く。 「いつかきっとあの星を忍にあげるよ」 光流はその言葉を忍に、というより、自分自身に強く言い聞かせた。 <ゆや/20050326> →今は星も見えず。 |