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花の種。


 安普請のアパートの狭い部屋の中に、かすかに漂ってきた香りは光流がかいだことのないものだった。
 いつもの香水や化粧とは違う香り。
 いや、香りというより匂いか。
 光流は何も言わずに考える。
 がたんがたんという電車の通過音に混じって、忍の吐き出すため息が辺りの空気に入り交じる。
 椅子の背に掛けたシャツは熱い都下を歩いてきたとあって、流石に汗ばんでいたが、そこから漂う匂いは消し去られていない。
 それはおそらく男の残り香だった。


 別に忍が誰と会おうと光流には関係のないことだった。けれどもその匂いに包まれた忍の顔はいつになく、囚われたような息苦しそうな顔をしていて、今にも張り裂けて壊れそうだった。
 光流は雑誌を読む振りをして、黙って忍の行動を窺う。
 すると忍は電気をつけないまま、薄暗い部屋で台所仕事を始めた。
 かたんかたんと鍋を出す音。ぱたんという冷蔵庫を閉める音。とんとんと野菜か何かを切る音。
 そのひとつひとつが、光流にはまるで忍の泣き声のように聞こえた。
 相変わらず、泣くのが下手な奴。
 光流は小さく息を吐いて、今は影だけしか見えない同居人に目を向けた。
 背を向けたままの忍はいつにもまして頑なで、何をしても芽吹くことのない種のようだった。
 砂漠の中でスコールを待って何十年、何百年と眠り続ける種。
 その中でもとびきり変わり種はただ一度水に浸されたぐらいでは水の存在を信じられないのだろうか。
「忍ー今日のおみおつけ何ー?」
 光流は間延びた声で問いかける。夕方の穏やかで時間の止まったような空気を光流は深呼吸して体中に吹き込んだ。
  伸びとあくびを繰り返しながら、暖簾をくぐり台所へと入っていく。
「タマネギと油揚げだ」
「ふーん」
 光流は答えなど興味がないとでも言い足そうに投げやりな声を出して、忍の首に腕を回した。
「光流、熱い」
「ああ、風邪でも引いたらしい」
「そうじゃなくて……」
 エプロン姿の忍に持たせかかり、光流は目を閉じた。
「鬱陶しい奴だな」
「忍君、冷たいなあ」
「体が、か? 心が、か?」
「んー両方かな」
「ほう」
 忍はからかうような調子で答えた。
 その声には忍の精一杯の虚勢がこめられている。
 光流はそう感じ取って、壊れ物を扱うように慎重に言葉を選んだ。
「だから、俺の熱を分けてやるよ」 
「へえ」
 抱きしめる腕から、熱が伝わっていく。
「夏は、熱いもんだからな」
「おまえ俺のことを冷却器か何かと勘違いしてないか」
「忍君は変温動物だからな」
「光流、邪魔だ」
 忍は鮭のソテーを作ろうとフライパンを取り出した。
「油が飛ぶぞ」
「んー」
 光流は忍の髪に顔を埋めながら、どうしたらこの種は花咲くのだろうか、と考え続けていた。 



<ゆや/20050626>

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