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四月一日


 それは嘘みたいな日だった。


 部屋中に散乱した酒瓶の数は二人で飲んだというのなら、誰もが顔をしかめる量になっていた。
 辛口の日本酒の一升瓶。
 どこかから手に入れたウィスキー。
 果実酒とは名ばかりの度数40を超えるコアントロー。
 コーヒーリキュール。
 ビールやサワーの類は一切ない。
 当然のごとく、杯を空けている二人はただ無言で六畳しかない部屋の壁にもたれて立ち上がれないでいる。
 それでもまだ手元には酒が入ったグラスが置いてあった。
 時計の音がカチカチとうるさいぐらいに大きく響いて、沈黙をあおり立てる。
 時折、すぐそばの狭い道路をトラックが通り過ぎ、安普請のアパートをがたがた揺らしていく。
 地震に似た揺れが起こるたびに、暗い夜が薄い壁を通して部屋を侵食してきそうな気配が忍び寄る。
 いつもは安らぐ“我が家”が酷薄な空間に変わっていく。
 光流はグラスに目を落として考える。
 この透明な液体はなんだったっけ?
 考えて、次の瞬間にはどうでもいい、とばかりに一気に飲み干す。
 ところが思いがけず、アルコール分がきつく、すんなりと胃まで流れ込んでは行かなかった。
 つんと、鼻の奥が痛み、咽喉が激しくむせかえる。
 思いがけず、といってもそもそも考えることを放棄しているのだから、自分の行動と引き起こる結果とを結びつけることなど不可能だ。
「……ホ、ゲホッ……っつ……」
 光流は苦しそうに一通りにむせると、這いずるようにして忍の前を通ってトイレに向かった。
 そんなことを、さっきからもう何度も繰り返している。
 忍はただ茫然と何もない空間に虚像を見続けていた。
 目の前を光流が四つん這いになって通ろうが、トイレで吐いていようがまるで自分とは関わりないとばかりに微動だにしない。
 もし、お互い罵り合っているのなら、親しい友人同士の喧嘩――それもスキンシップという名がついていい――といえたかもしれない。
 けれどもこの日、お互いの弱点をついた些細な口論は二人の間に異和感となっていつまでも横たわっていた。
 そのほんの少しの距離を二人はどうすることもできず、あろうことか、距離があることにひそかに安心してもいた。
 忍は虚空を見つめて。
 光流の視線は空を鋭く切り裂いて。
 がたり、と音がしたのに忍は気づいていた。
 光流が、トイレから転がりでたのだろう、と頭の片隅で考える。
 同時にいつまでこうしているんだ、と思い、吊るされた男の苦悩に似た、じりじりとしたこの葛藤を早く終らせてくれ、と何かに強く願った。
 願いながら、この夜がいつまでも明けなければいい、とも必死に思っていた。


「大学、終わったらどうするんだ」
 光流の言葉は、あまりによく晴れた朝の日差しのように、忍の心に突き刺さった。
 就職活動はろくにしていない。
 それは光流自身も同じことで、だから忍はすっかりと安心していたのだ。
 まだ、この場所にいていいと。
 まだ、結論を出さなくていいと。
 これが逃げ以外の何物でないことは誰にいわれなくてもわかっている。
 それでも忍は家を継がないということもできず、他の職に就くこともできず――ただ、光流といるために大学院にでも進もうか、と考えていた。
 ところが。
 光流の言葉に驚いて、その眼を見てわかった。
 光流はもう何か決めていたのだ。
 職探しをしてないわけではなかったのか、それとも宛があるのか。
 忍にはわからなかった。
 白鳥は優雅に湖を滑りながら、水面下で必死に足掻いていたのか?
 そう言葉に吐き出して笑い出したかった。
 ここは、仮の宿だと思っていた。
 ここから離れなくてはならないのだと理性で理解していた。
 自分は光流を捨てて、父親の待つ家へ帰る。
 だから、自分が就職活動をすることは永遠にないのだと思っていた。
 どこかに勤めるというなら、多分親族の経営するどこかにポストが用意されることを誰にいわれなくてもわかっている。
 そして自分は背負いきれない重圧を無理にでも背負って父親の空蝉となるのだ。
 それが手塚忍の確定未来。
 そう諦めていた。
 なのに、光流の言葉を聞いて気づいた。
 ずっと一緒に歩いていくつもりだったのは自分のほうだったのだと。
 光流はもうずっと前から、一人で行くつもりでいたのだ。
 裏切られた、と思うにはあまりにも自分が浅はかで、なのに感情はどこまでも直情的に光流を責めつづける。
『何でだ。』
『俺を捨てるのか?』
『何故もっと早くいわなかった!!』
 何故――?
 光流はいつだって何もいわない。けれども就職に関して何もいわずにいたのは忍も同じだ。
 ただ、いわないでいた理由が違うだけ――。


 俺はどうすればいい?
 忍は虚空に問いかけた。
 感情が、感覚が、心が壊れていた。
 こどもの頃から、ろくな栄養を与えられなかった感情は緑林寮でやっと少しばかり芽生えさせたにすぎない。守りは弱い、強さも持たない。忍の心の芽はも光流の言動一つであっというまに萎れてしまう。
「光流……」
 忍は虚空を見つめながら呟く。
 少し離れたところで、その声を聞いた光流は小さく舌打ちする。
「なんだよ」
 はっきりとした声が部屋を現実に戻した。
 忍ははっと目を瞠り光流の顔を見た。
 さっきまで酔いどれて声も出せなかったはずの男は、その目にしっかりとした光を湛えている。
 そのあまりに確からしさが、忍を混沌に貶めた。
「何故だ、なんで……」
 忍は急に体を起こして、光流に掴みかかると、勢いのままに体を捩じ伏せた。
 なんで、おまえはそんなにも確かでいられるんだ。
 忍は泣き叫びたかった。
 世界中を味方につけて、光流を非難したかった。貶めたかった。
 自分が正しくて、光流が間違っているのだと詭弁を並べてたて、罪人に仕立て上げるのだ。
 そうすればきっと、自分は安心する。
 安心できるような気がするのに、どんな理論を並べ立てて、光流の罪をあがねつらねても、光流の目が忍にいうのだ。
 おまえはそれで満足なのか、と――。
 その言葉に忍は討たれる。
 想像の中の光流でさえ、忍は決して適わない。
 悔しさが体中の力を掻き立てて、感情が暴走する。
 今、光流は腕の中にいる。
 組み伏せた腕の抵抗はいつもの比ではなかった。正気ではいられても体は酒に酔っている。
 忍は考えるまもなく、光流が羽織っているカッターシャツを引き剥がし、Tシャツを捲し上げた。そのまま、下の方に手を伸ばす。かちゃかちゃとベルトのバックルが音を立てる。
 忍の手が、震えているのだ。
「何考えてやがるっ」
 光流は覆い被さる忍を引き剥がそうと体を捻った。その体を忍は柔道の寝技を駆使して床に貼り付ける。右手を後ろ手に回し、ぎりぎりと捻り上げる。
「……くっ……」
 やっと、悔しそうな声が上がった。
 忍は最初から有利な体勢で押し倒していた。自己流で慣らしている光流とはいえ、簡単に逃れられる訳がない――そう思うと、今更ながら自分は光流に勝つことができるのだと思った。
 心の中に次から次へと湧き起こる感情を無視することさえできれば。
 筋肉質の体は骨ばって、抱いても柔らかさは感じられない。骨と骨がぶつかる感触はどこか痛々しい。
「忍、いい加減に、」
 抱き寄せて、キスをして。
 抵抗を力で捩じ伏せ、苦情は唇で封じて。
 舌先を絡めとり、体を抱きしめると、それがこの世で唯一の実像に思えた。
 すべては悪い夢だった。
 光流、そういってくれ。
 忍は心の中で呟いた。
 家で自分に覆いかぶさろうと待ち構える幾多の妖怪どもも、自分を省みない冷たい兄も知り合いも、うざったいほど、自分の都合だけを考える女たちも、すべては――存在しないのだ。
「うあっ」
 ズボンの中に入れた手が光流の急所を締め上げる。
 指先を動かすたび、光流の体が跳ね上がる。
 俺が動けば、光流が動く――。
 忍はその感覚に酔いしれた。
 これでいいじゃないか。
 どうして、こうじゃだめなんだ。
 そんなことを考えながら白い首筋に噛み付くと、額にピアスが冷たく当たる。
 その感触は忍の愉しみにわずかな染みを落とした。
 真っ赤なピアスは光流のささやかな抵抗のようだった。
 どこから見ても古めかしい日本人顔の忍に対して、光流は異国の地が混じっているといっても不思議はないほど、垢抜けた派手な顔立ちをしている。
 初めて会ったころならまだしも、髪を伸ばし、装飾品をつけ、これでわずかに化粧でもすれば、外国の歌手といっても通るぞ。
 忍はそんな冗談をいったことがあった。
 遠い異国の王子様は、どこにいても、どこか遠くの見つめて――。
 その、紫色の目が、鋭く見通している。
 いつだって、忍には見ることができない何かを。
 それは今も同じだった。
 光流の目が、忍の心の奥底を射抜いた。
 目が合った瞬間、忍ははっと我に返った。
 隙はほんのわずかだったが、光流には十分だった。
 あっというまに自らを捉える腕をねじ切って、両手を自由にすると、体をよじりながら、跳ね上げ、忍の下から抜け出していた。
 それはあっという間の出来事で、いつだったか、殴られた瞬間のように、一瞬、忍の頭は真っ白になった。
「……っはぁ、はあ」
 荒い息が部屋の中にこだまする。
 忍は自分が組み伏せられている、と思った。
「ばかやろー……」
 光流の少しかすれた声。
 忍の茫然とした顔。
 力をなくした四肢。
 殴られると思った。このまま自分を見捨てて、もう二度と戻ってこないような気がした。
 けれども、闇の中に触れてきたのは暖かい人肌で、忍は自分が夢を見ているのだと思った。
 酔いどれて、やけくそになっても都合のいい夢を見られるなんて。
 それは幸せなことなのだろうか。
 忍は虚空に問いかけた。
 暗闇は、何も答えない。
 それでも、忍を抱きしめる腕は何度も何度も苦しそうに背中を撫でていった。



 東京23区内で家賃七万のアパートといえば、それはボロに決まっている。
 そうでなければ、何か異様なモノが同居する羽目になるのだ。
 光流と忍がアパートを決めるときも条件の割におそろしいまでに安い物件はあった。
 部屋を見に行くと、忍はすたすたと、和室の隅まで歩いて、
「ここだな」
と呟いた。
 光流はただひたすら首を振っていた。
 それは一体いつのことだったのか。
 光流は寝ぼけた頭で考えた。
 三年かそこらしか立ってないはずなのに、随分遠い昔のことに思える。
 緑林寮で過ごした三年間など、前世の記憶といってもいいほど、甘く感傷的で、美しい思い出になっている気がした。
 いくら思い出が美しくたって、どうしようもねえんだよ。
 光流は心で悪態ついて、眩しい記憶を瞼から削除した。
 二日酔いでがんがん唸る頭を騙しながら、冷蔵庫まで這いずっていく。
 扉を開くと、駅二つ向こうのスーパーで特売を箱買いしたトマトジュースが下段に並んでいた。
 ぷしっと軽い音を立てて、プルトップを開けると、昨夜と違って、人の蠢くノイズが外から中まで緩やかに流れているのが感じられた。
 それは誰に向けられたモノでもないけれど、柔らかと、どこか優しい気配がする。
 夜に感じた酷薄さ、無常感は部屋のどこからもすっかりと拭い去られている。
「……ん……」
 部屋の隅に見える毛布の固まりが小さなうめき声を上げる。
 光流は冷蔵庫からもう一つ、トマトジュースの缶を取り出して、固まりに向けて転がした。
 勢いよく当たったそれをどこかから出てきた手が探り当てるのを光流は黙って見ていた。
 軽く息を吐き、どうしようかと考えていると、柱にかけてある日めくりカレンダーが目に入った。
「よいせっ」
 光流はがたっと音をさせて、椅子に掴まりながら立ち上がった。
 そして。
 びりびり。
 カレンダーを一枚引き裂いて、今日の日付に変える。
「全部嘘だ。俺たち、騙されたんだよな」
 光流が呟く。
 忍は毛布の下で目を大きく瞠った。
 スリッパの音が遠ざかっていく。
 ぱたんと扉の開く音を合図に跳ね起きた忍は呆然と、誰もいない空間を目に捉える。


 柱のカレンダーは四月一日になっていた。


<ゆや/20050401>

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